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1995

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作品説明

1995


 COMITIA98で初頒布した既刊。
 約1万5千文字。少女と銃の組み合わせ。
 現代の内戦を舞台にしていますが、幻想的なお話がメイン。
※サムネは表紙の切抜き。河童平野さんに描いてもらいました。


1995(TINAMI)
 少女のもとに現れる、黒い少女――死神。
 理不尽なること。死神は因果もなく絡みつく。
 少女に銃を握らせて、それは静かに告げた。
 選びなさい、理由なんてないのだから――

レシピ

■1991

 鉄の混じったようなざらざらとした臭いが、喉の奥を鷲掴みにした。
 喉の奥より引きずりだされ、口の中にじわりと広がるすえた臭い。
 思わず口元へ手をやった。
 必死に押さえ込もうと肩を上下させる。頭の中で全てが錯綜している。何も考えられない。
 嫌だ。
 思い浮かぶのはただそれだけ。
 理由を考えることすらできない。ただ、ただ、嫌だ。
 嫌だったのだ。彼女は汚物ではない。死んだ、死んでいたとしても。事切れた彼女を前に嘔吐するという行為そのものに対する、強烈な嫌悪感。
 ぐっと、何かを飲み下すようにして吐き気を抑え込む。
「はっ……はっ……」
 その部屋に響くのは、自分の吐息と、すすり泣く幾人かの嗚咽だけ。
「……」
 昨日まで笑っていた。
 さっきまで励ましあっていた。
 今の今まで、鼓動を感じていた。
 何故。どうして。
 思考が、その処理能力を超過した感情にかき乱される。
「ぁ……」
 寒い。冬でもないのに。真赤に塗れた手で自分の肩を力の限り抱いた。握り締めた。爪が食い込むくらいに。
 黒い髪にこびりついた血は、既に水気を失ってどろりと粘り始めていた。
 瞳は焦点も合わぬまま、ゆらゆらと揺らめいて、時折、思い出されたように瞬き、薄っすらと涙を浮かべる。
(殺された)
「みんな殺されちゃうんだ!」
 誰かが叫んで、わっと泣き始めた。
 彼女はその叫び声にびくりと身体を振るわせ、より強く自分の肩を抱きしめる。
(殺される……殺されるのかな、私たち)
 ぐったりと横たわるナシムの遺体を見やって、彼女は、アーニャは唇を噛み締めた。
(ナシムみたいに?)
 瞳の奥で蘇る。
 有無を言わさぬ一方的な暴力。
 銃口を向け、指に力を込める。そのたった二動作だけで、彼女は、ナシムは生を断たれた。
 太くて毛むくじゃらの腕をした、自分たちより一回りも二回りも大きな大の大男。それが、その肉体的暴威を振るうまでもなく、引き金に指を掛けるだけ。それだけで、ナシムは殺されてしまった。
 ナシムを殺したのは、むせ返るような臭気さえ感じられたその重苦しい身体ではなく、機械。意思持たぬただの道具。
 おかしいじゃないか。
 これはなんだ。
 吹けば飛ぶ、羽毛のような軽さ。
 こんなに軽いのか。こんな。こんなにも。
 インスタントな死。ナシムの死には何の物語もなかった。なら、この死は何だったというのだろう。私の死は何になるのだろう。何故死んだ。何故殺された。何故。何故だ。何故。わからない。何ひとつわからない。
(そんなの……嫌だ)
 絶対に嫌だ――死が?
 違う。死ではない。ナシムのような死が、そのインスタントな死こそが、たまらなく嫌だった。流れ作業のように死にゆくのだけは絶対に嫌だった――それは、明確な言葉にこそならなかったが、アーニャの心の中で確かに呻き始めていた。
(嫌だ!)
 叫び。
 口にしたつもりのその言葉は、頭の中に響いているだけだった。
 それでも、それは確かに叫びだった。
 声にならぬ声。
 誰ひとり聞いていない叫び。
 誰一人――
「嫌か?」
 頭上で声がした。
 透き通った声にアーニャは目を開いた。ナシムと自分の間に、誰かが立っていた。黒いスニーカー。黒いズボン。黒いシャツ。黒いパーカー。パーカーに手を突っ込んで気だるそうに立つ、見知らぬ少女。
 一緒に捕えられていた子たちの中に、こんな少女はいなかった筈だった。
「え……?」
 黒いタートルネックに隠れた肌は病的に白く、髪の毛もまた黒々と、ただ髪の毛に隠れがちなその瞳だけが生々しいまでに赤い。
 現実味に乏しい美しさ。
 アーニャを見つめる彼女は、さして興味も無さそうな表情を漂わせたまま、先ほどの言葉をもう一度繰り返した。
「嫌か?」
「私……」
 辛うじて、搾り出すように答えた。
「……嫌だ」
 対するその黒い少女は、その言葉を確認すると、眼下のアーニャから顔を逸らし、暫しの間、じっと押し黙っていた。
「そう」
 やがて、ぽつりとそう洩らす。
「わかった」
 小さく頷く少女。
 ぞくり。直後、アーニャは全身を、冷たくべたついた「何か」に絡め取られ、撫で回されたような気がした。冷汗がぶわと浮き上がり、息苦しさに胸を締め付けられる。
 恐怖ではない。
 不思議と。警戒心は薄れた。
 安心感と言ってよいのだろうか。それは甘くるしく、官能的な響きを備えている。
 「それ」の正体が何であったのかは解らない。
 ただ、眼前の少女が差し出した、その小さな手に握られている機械を、アーニャは知っていた。
「銃……」
 その拳銃は掌に納まるほど小さく、裸電球の灯りに照らされて、鉄特有の鈍い光沢を放っていた。
 少女は拳銃を掲げた。反射的に身体を震わしたアーニャだが、揺らされた拳銃をよくよく見つめると、向けられているのは銃口ではなく銃握だった。少女はそんなアーニャの反応をまるで気にする風もなく、淡々と言葉を続ける。
「あげる」
「……え?」
 きょとんとして、彼女の顔を見つめる。
「選びなさい」
「選ぶって……何を」
 その問いに答える言葉はなかった。
 少女の表情は冷ややかであった。その声には、感情など微塵も込められていない。無機質であるのとは違う。抑揚が無い訳でもない。ただただ、ひたすらに冷たい。
「……」
 アーニャは、夢遊病患者のように手を伸ばす。
 銃握へと伸ばされる腕は披露と緊張からぐったりと疲れ、こわばって棒のようにゆらゆらと揺れていた。それでも、腕は半ば無意識に伸びていく。
 銃。
 受け取る。受け取って、それで。どうするのだろう、私は。
 銃に触れる瞬間、アーニャの指先はぴんと跳ね、動きを止める。怖い。けれど欲しい。なのに怖い。
 それは――
「選びなさい。理由なんてないのだから」
 ――一瞬の戸惑いと躊躇。
 最後のそれを踏み越えさせたのは、少女の声だった。
 その声、囁きに、反射的に銃を握った。少女の言葉に、意味はあったのだろうか。解るようでいて解らない、まるで脈絡を感じさせぬ。
 それでも少女は、アーニャが掴んだ銃をすっと手放した。
 ずしりとした重みに腕ががくっと落ちた。
 本当にくれるのだ。
「私……」
「理由なんてない」
 口ごもるアーニャに割り込む少女。
 少女はポケットに手を突っ込む。
「理由なんてない」
 少女は一字一句同じ言葉を繰り返し、アーニャは、自らの手に握られた拳銃をじっと見つめた。
 やがてふいに視線を戻したとき、少女の姿は既になかった。
 と同時に、周囲のすすり泣く声が再び耳に入ってきた。ぼんやりと周囲を見回したが、その様子には何も変わったところがなかった。すすり泣く声が響くその部屋で、電球に吸い寄せられた蛾の影だけがゆらゆらと揺らめいている。
(あれ?)
 まるで少女など最初から存在しなかったかのように。
 それでも、夢ではない。
 彼女の手元には、確かに拳銃が残されている。
 無言のまま拳銃を強く握りなおす。ずっしりとした重みに、まるで暴力を感じさせぬ冷たさ。その感触を確かめるように、左手を添える。
 彼女は押し黙った。
 一言も発さず、ただただじいっと拳銃を見つめ続ける。
 皆、自分のこれからに悲観するばかりで精一杯で、彼女の手に握られていたものには気付かない。
(私は……)
 頭の中でさえ言葉が続かない。
 霞みがかってしまったかのように、言葉にできなくなってしまう。
(私は……)
 口の中とも胸の中ともつかぬ曖昧なまま、うわ言のようにただ繰り返す。ナシムは死んだ。ナシムを殺したその機械がここにある。その力を差し出して、少女は選べといった。答えも無いままに、何に対して選べとも告げないままに。
 選ばなければ、と思った。
 たとえ、何を選べばよいのかすら解らずとも。
 それがあの少女に対する誠意だと思った――けれども、状況は彼女に時間を与えてはくれなかった。
 薄っぺらい金属の音を響かせて、部屋のドアが開く。
「……!」
 ドアを開け放って男が顔を見せた。肩から突撃銃を提げた、また別の男だった。男は煙草を咥えたまま、生気の感じられぬ目を子供らへ向ける。ひとり、またひとりと顔から身体を舐めるように眺め廻し、口端から煙を吐く。自分へと顔を向けられた子は恐怖に強張らせ、次へと視線が移れば涙交じりに俯き、心の中で息を吐く。
 そうして順繰り辿ってきた視線が、ナシムの傍らにへたり込んでいたアーニャの元でぴたりと止まる。
 アーニャははたと気付いて顔をあげ、ぼんやりと男を見返した。
 男の眉間に皺が寄った。
「あ?」
 電球ひとつの薄暗い部屋の中、彼が目を凝らしたのは事切れた遺体を前にへたり込むアーニャ自身ではなく、彼女の手元だった。
 見慣れた、しかしこんなところにある筈のないもの。
 怪訝そうな表情は、みるみる驚愕に変わる。
 生気の抜けた瞳が獰猛な暴の色を帯びる。
 一呼吸遅れて、ぼんやりとしたアーニャの表情が張り裂けた。引きつるように息を吸い込み、手が強く強く銃を握り締める。
「おまえ!」
 男が叫んだ。彼は胴を捻り、肩から提げた突撃銃へ手を向ける。
 殺される。
 殺されてしまう。
 ナシムと同じように、いともたやすく。
 やだ。

 理由なんてないのだから――

 頭の中に、少女の言葉がリフレインする。
 何かを叫んだ――と思う。おそらくだ。解らない。
 男の口からは煙草が舞い落ち、周囲の子らは反射的に身を引き、蛾の影は変わらず揺らめいている。脈動の中、アーニャは瞳孔を開かせ、曲がりなりにも積み上げていた思考を崩し倒した。だからそれは無意識の行為だった。

 渇きの音。

 彩りが失せた。
 音が消え去った。
 時が止まっていた。
 心地よい共鳴だけが耳の奥にじんと響く。
 安堵――「それ」を選んだと同時に訪れた安堵に、肩の力が抜けた。
 床に跳ねる薬莢の音が現実を、男の額から流れる赤色が彩を、それぞれそ部屋に取り戻す。
 前にぐらりと揺れた男は、一歩だけ踏み止まったものの、そのままぽかんとした表情で倒れ込み、寸劇の幕を引く。
 アーニャは己が心臓の鼓動を感じた。爆発、拡散していた意識が逆再生するように終息しはじめ、当初のそれよりも更に小さな一点へと帰っていった。一拍だけ聞こえた心臓の鼓動はドラムロールさながらに加速し始めるが、それに反比例して意識は穏やかだった。
 床に転がる男。
 じわりと広がる赤色を前に、アーニャはゆらと立ち上がる。
 周りの子供たちがわっと騒ぎ出すのをまるで意に介さず、その喧騒を背に男の死体を踏み越え、歩き始めた。
 ドアが開いている。
 拳銃を握り締めたまま、彼女は静々と歩を進める。部屋からドア、ドアから廊下へと。
 廊下へと踏み出してから、彼女はふいに部屋を振り返った。
「……」
 あの少女が佇んでいた。
 少女は今しがた転がったばかりの、まだ暖かい男の傍らに佇み、パーカーのポケットに手を突っ込んだままじっと彼を見下ろしている。
 そんな少女の後ろ、裸電球に照らされて浮かび上がる、泣き喚く顔や唖然とした表情、驚愕と共にアーニャを見つめる瞳。そこにはあらゆる感情がない交ぜになって満ち満ちている。それでも、それ炸裂せぬままその場で淀んでいくばかりだった。
 そんな彼らと少女の間に男が転がっている。
 そこには鉄格子があった。
 存在しない鉄格子。
 少女一人だけが鉄格子のこちら側にいた。無言で佇むその少女は、視線に気付いてか、ふいに顔を上げてアーニャを振り返る。
 先ほどと変わらぬ冷たい瞳。
 それでも、アーニャは自然と微笑んだ。
 少女は何も返さず、アーニャもそれきり背を向けて駆け出した。窓枠に沿った四角い月明かりだけが廊下を照らしている。足を踏み出す度に、割れた窓ガラスが靴の底でじゃりじゃりと音を立てる。
 廊下の曲がり角、崩れ落ちた一角を乗り越えて転がり出る。
 ひっくり返って頬をすりむいた。ズボンをはいていてよかった。膝をすりむかずにすんで――その傍ら、銃を落としはしなかったかと、手元を見つめる。
 大丈夫、しっかりと握られている。
 アーニャは立ち上がり、再び駆け出した。
「はっ、はっ……」
 白い息を切らせてただただひたすらに。
 木々の合間から覗くのは、雲ひとつない満点の星空。輝く半月。
 綺麗だった。
「あはっ」
 思わず漏れた感情が口を突く。
「あははは――
 ――アーニャは駆ける速度を落とさず、空を見上げ、途切れがちに笑った。
 ぼやける視界の中で、月が優しく微笑みかけていた。大丈夫、私は大丈夫だよ――胸の中で語りかける。ありがとう。大丈夫だから、どうか心配しないで――月は最後までアーニャを照らしていたが、やがてより鬱蒼とした枝葉に覆い隠される。
 少女はなおも走る。
 走り、走って――
 やがて、ぷつりと暗闇に消えた。


 丘の上に、二人の兵士がたむろしている。周囲には木々が生い茂り、彼らは、転がった丸太に腰掛けて煙草をふかしていた。

 煙草を咥えた隣の奴にジッポーを開いて差し出した。
「何か動きは?」
「いや……どうかな。普段通り。静かなもんだ」
 どこか遠くから響く銃声に、空舞う鳥の声が重なる。
 ひょいと後ろを振り返る。
 眼下には、近代的なコンクリートビルやアパートメントが痛々しい姿を並べていた。
「……ん?」
 再び、どこかから銃声が響く。
「どこでやってるんだ」
 座り込んで煙草をふかす兵士は興味無さそうな様子で、自分の吐いた煙を見つめている。対して、振り返った兵士は、やがて傍らの双眼鏡を手にした。
「ちょっと近くなかったか、今のは」
「どうだかな……放っときゃいいだろ」
「まぁ、一応な。一応」
 二、三歩動いて双眼鏡を覗き込むが、風に揺れる木々が視界を遮るので、彼は、にじり寄るように木々を潜って顔を出した。双眼鏡の中に映る、損壊した建造物たち。大通りに双眼鏡を向けると、人々が建物の影から影へ慌てて走り去る様子が見える。
 普段通りの見慣れた風景。
 彼は一度双眼鏡から顔を離し、煙草を摘む。
 再び、渇いた銃声が響いた。
 丸太に座ったまま動かない兵士は、煙草を揺らしながら顔を上げた。
「よくやるぜ、ホント」
 彼は根元まで吸い終えた煙草を煙もろとも吐き出し、靴底で揉み消した。肩からぶら下げたザスタヴァM70を担ぎなおして、後ろへ振り返る。
「じゃ、俺は行くぜ」
 別れの言葉を投げかけるも、返事はなかった。
「……?」
 妙な違和感に、彼は、同僚の元へ歩み寄る。
「おい、おいって!」
 座り込んだままの背をどんと叩くや、その身体はぐらりと揺れ――慌てて振り返った。双眼鏡から顔を離した兵士は、ぎょっとした表情で彼を見やる。
「何だよ、脅かすなよ」
「……いや、悪い。何でもねえよ」
 彼はため息交じりに肩をすくめると、怪訝そうな表情の相手に背を向けて、頭を掻き毟る。
「そいじゃ」
「おう」
 お互い手をひらと掲げる。
 前を向いて足にぐっと力を込め、斜面を登ろうとしたとき、小さな衝撃が腰に走った。響く銃声と共に彼は、斜面を登ろうとしたままぐらりと前のめりに倒れ込む。
 何事かと唖然とする彼は、腹の辺りから走る鋭い痛みを感じて、叫んだ。
「ちくしょう! やられた!」
「……え?」
 双眼鏡を手にしたもう一人の、ぽかんとした口元から煙草が落ちる。
 だが、次の瞬間には早くも我に返って、辺りを一瞥しながら同僚の下へと駆け寄った。
「くそっ、しっかりしろ!」
 彼は、前のめりに倒れたまま喚く彼の脇に首と腕を通すと、ぐいと持ち上げる。軍服が、わき腹からズボンに掛けて真赤に染まっていく。体重を支えながら、ぐらつきがちな斜面を踏み締めて上へ上へと急いだ。
 痛みに喚く同僚の声に混じって、何ら代わり映えのない銃声が響いた。

 照準の中央に標的が倒れる。
「……」
 銃を構えていた人影は、銃から顔を離し、ゆっくりと身体を起こす。
 その人物は、まだ幼さの残る少女だった。
 汚れて荒れたストレートの黒毛が、肩の上で揺れていた。すっと窓から身を引いて、ため息混じりに腰を下す。ぼんやりと天井を見つめる瞳はくすんだ灰色をしていた。
 手にした小銃を、ぎゅっと抱え込んだ。
 少女は酷く落ち着いたような、安心しきった様子で、まぶたを閉じる。
 モシン・ナガンM1891/30――五十年以上昔に設計された小銃だ。
 狙撃用に設計された銃ではないし、レティクルをはじめ純正品ではないが、精度は上々で、なにより状況が状況だった。武器も弾薬も、手に入れるのは簡単じゃない。
 少女は首元のマフラーを巻きなおし、窓枠に乗せてあった小さなクッションを摘んですっくと立ち上がる。
「……帰ろ」
 残った弾丸を抜き、壁沿いに奥へと引っ込む。
 リズムよく階段を駆け下りる彼女の腰、ホルスターには小さな拳銃が収められていた。ザスタヴァP25。
 駆け下りた彼女は、そのまま大通りに面した玄関へは向かわず、荒れ放題に任されたままの部屋を幾つか通って、裏側の勝手口へと抜けた。ビル沿いに歩く彼女の頭上、ビルに挟まれて帯のようになった空は、青々と美しかった。
 幾つかの道路を渡り、路地裏を抜けて、やがて、煤汚れた小さなビルの中に辿り着いた。
「よう。お帰り、アーニャ」
 玄関先にたむろしていた男たちが、人懐っこい笑顔をむける。
 「あれ」から、既に三年が経っていた。少女――アーニャは、はにかみがちに笑い、小さく手をあげて答えた。
「どうだった」
「二人です」
「お疲れさん。タノヴィッチさんが呼んでたぜ」
 お互いに軽く目礼して過ぎ去る。
 ビルの中には雑多な雰囲気が満ちていた。玄関は開け放たれ、皆、ベンチに寝そべったり、部屋の一角で毛布包まったりしている。そこにいるのは圧倒的に男性ばかりで、誰もが銃を携行していた。
 だが、その姿や様子に機能的な統一感はない。
 皆、民兵たちだった。
 彼女は幾人かの民兵らとすれ違って、一番奥の部屋へと足を向け、ノックして促されるままにドアを開いた。
「おう、アーニャか」
 男はソファの上に足を放り出して座っており、アーニャの姿を認めると、手にした何枚かの書類をひらひらとさせた。
「どうだ、調子は」
「二人です」
 彼女は背を正しぎみに頷いた。
「二人か……殺ったか?」
「一人は確かに。もう一人は腹なので……」
「ン。そうか」
 俯きかげんに答えるアーニャ。
「それで、なんでしょうか」
 問うその曖昧な言葉に、彼はあごひげに手をやった。
「レティクルの調子が悪くなったって言ってただろう。新しいのがひとつ手に入ってな。使うといい」
 ごとりと机に置かれた箱は、くたびれていた。
 それでも、中に収められたレティクルは未使用らしく、紙にくるまれて鈍い光沢を放っている。
「あ……ありがとうございます」
 表情を崩すアーニャの瞳が子供のように輝いた――いや、事実彼女は子供なのだ。未だ二十歳にも満たぬ。であるなら、それは、子供らしくと表現すべきなのだろう。
 タノヴィッチは気にするなと肩をすくめ、小箱を叩いて煙草を咥えた。
「戦況は好転しそうだ」
「そう、なんですか?」
「アメさんが本腰を入れてきてな」
 彼の言葉は、まるでアーニャの関心を捉える様子が無かった。タノヴィッチは苦笑して紫煙をくゆらせた。アーニャは新しいレティクルが気になる様子でもあったが、どうせ、そうでなくてもさしたる関心を示さなかったであろうことは解っている。
 それでも、彼は上の空なアーニャに怒りはしなかった。
「相変わらず興味なしか」
「あ、いえ……」
「いいさ」
 彼は手をひらひらとさせてアーニャを追い払う。
 アーニャは、新しいレティクルを大切そうに抱え、幾度目かの礼を口にしながら部屋を辞した。
「……」
 そうだ。興味がないことは解っていた。
 いつでも銃を大切そうに抱え、まるで安心毛布さながら手放さず、戦争の勝敗も解決も気に留めない。どこか、人を撃つことにしか興味がないようにも見えた。
 じっと、今しがたアーニャが閉じた扉を見つめた。
 アーニャは廊下を行き交う人々の間を上手にすり抜けて歩き、地下の工具室へ急いでいた。今しがた貰ったレティクルを取り付けるために。


 その日、夢を見た。
 私は新しいレティクルを取り付けたライフルを手に、夜の中をさまよっていた。レティクルを覗いても標的は映らず、人の気配を感じられぬその暗闇の中を、当てもなく歩いているのだ。
 とぼとぼと歩いていると、ぼんやりと人影が浮かび上がる。
 遠く、誰だろうかとレティクルを覗き込むと、そこには、あの時の少女あの時のまま、変わらぬ姿で佇んでいた。
「……?」
 ふいに首を傾げると共に目が覚めた。
 寝ぼけ気味の頭を起こして、懐中時計を見やる。時刻は朝の八時頃。ちょうど良い時間帯だ。
 周囲には数人の女性民兵がいた。それぞれ、寝袋にくるまったり、着替えたりしている。挨拶に返事をしながら、アーニャは窓の外を眺めた。薄暗い曇り空。雲の隙間から、時折ちらちらと光が射している。そしていつも通りの、散発的な銃声。
 彼女は起き上がり、ジャケットを羽織った。
「三年振りだね」
 ぼそりと口の中で呟く。
 呟いて、顔を洗いに部屋を出た。
 水道もまだ完全には普及していない。水の出るのは外の水道ひとつだけで、皆そこで顔を洗うなり飲用水を汲むなりしていた。列を作るでもなく、なんとなく群れるような形でおいおい順繰りに水を汲んでいく。アーニャもプラスチックの桶を手に、水道が開くのを待っていた。
「……?」
 ふと、妙な気配を感じて振り向く。
 周囲は自分よりも背の高い人が多勢いて、よく見渡せない。それでも、見渡せないなりにぼんやりと辺りを眺めていると、後ろから背を小突かれた。
「どうした、空いたぜ」
「あっ」
 慌ててしゃがみこみ、桶に水を汲む。
 背後から唸り声と、腹痛だ何だとからかう声が聞こえてきたが、アーニャは特に気にすることもなかった。


 ビルの一角。
 彼女は窓際から身を乗り出さぬよう、ちらと顔を出す。
 昨日取り外した古いレティクルを双眼鏡代わりにそっと向ける。銃口がこちらとは反対方向に向いていた。顔先がちらと覗くことはあるが、身を乗り出しているというほどではない。
 向川の焼け焦げたマンション、最上階の左から三番目。
 窓枠から数歩離れたアーニャは、ひっくり返った箪笥の上に小さなクッションを添え、押し付けるようにして銃を置いた。そうしておいてから、ゆっくりと腰を下した。
「……」
 そのままどれほどの時間、じっとしていただろう。
 相手は、二度ほど通り目掛けて発砲していた。通行人は多勢いる。狙いを外しても、人々は狙われていようが皆そこを通るので、どうしても気が緩み、狙いは不正確になる。
 だから――こうして顔を出す。
(きた)
 引き金を引いた。
 鋭い発砲音と鈍い振動が、身体の芯を震わす。
 数秒して、アーニャは身を翻して部屋を離れた。小走りに壁際へ回り込んで、壁にもたれる。
「ふー……」
 深く細い、深呼吸のようなため息。
「……外した」
 憂鬱そうに表情を曇らせて、小さく呟いた。


 銃を担いで、彼女は大通りを歩いていた。
 建物と建物間だけは駆け抜けるようにしながら。
 モシン・ナガンは彼女の身長の2/3ほどもあり、彼女の歩に合わせてゆらゆらとその長身を揺らす。
 おそらく、先ほどの標的はもう場所を移ってしまっただろう。それが、行き交う通行人を狙うこととの違い。
 一方的ではないのだ。
 新しいレティクルの調整は済ませているが、今日は慣れも兼ねてだ。無理はせず安全にやろうと、行き交う住人らの間をすり抜けて歩いた。
 手提げ袋を手にした、おそらくは配給所から帰ってきた子供たち。通り過ぎる数名の子供たちを何気なく見やったときだった。
「……あれ?」
 そのまま逸らした視線を、取って返したように走らせる。
 彼らではない、それよりも奥、街路樹の脇。
 あの少女がいた。
 夢の中同様「あの時」から何も変わらない姿で、纏う雰囲気もそのままに佇んでいる。顔をあげた少女と目があった。
「ぁ……」
 声を掛けようとして、アーニャの手が躊躇いがちに空を掴む。
 少女は、ついと瞳を逸らした。ゆらりと動く視線の先に、アーニャはつられるようにして顔を向ける。その先には、今しがた通り過ぎていった子供たち。
 彼らはじゃれあいながら、手提げ袋を揺らし、リュックを抱えてバリケードの裏を走っていて、バリケードの切れ目に差し掛かったときだ。
 小さく響く銃声と共に、最後尾の少年がひっくり返った。
(やられた)
 異変に気付いた少年たちは振り返って大声をあげ、行き交っていた大人たちが慌てて駆け寄る。アーニャもまた駆けつけようとして、思い出したように少女の方角を振り返った。
(いない……)
 その姿はそこには既になく、アーニャは少年へと視線を戻す。
 だがどういうことか、先ほどまで街路樹の隣にいた筈の少女は、倒れた少年の隣で少年を見下ろしていた。冷たい表情で、言葉もなく、ただただじっと見つめているだけ――そうした姿に、思わず息をのんだ。人ならざる者であろうことなど、三年前のあの夜、既に理解していた筈なのに。
 それでも彼女は、私の命を救ってくれた少女だった。
 それだけに、こうもまざまざとそれを見せ付けられようとは。
 やがて少女は、わっと駆け寄った大人たちが少年をバリケードの側へと引きずり込むと同時に、ゆらりと背を向けて歩き出した。
 絶叫する少年の足元をきつく縛り、誰かが叫ぶ。
「大丈夫だ、安心しろ、足だ!」
「俺が担いでいく。誰か先に病院へ連絡を!」
 手馴れた様子で指示を飛ばす彼らの輪から、ひとり離れていく少女。
 それを交互に見やって、アーニャは表情を曇らせた。
(たぶん、あの子は助からない)
 確信めいた直感。
「あなたは……!」
 気付くと、歩いているとは思えないほどにもう離れてしまった少女を追いかけて、アーニャはバリケードから離れ、我が身も省みず駆け出した。
「どこいくの!」
 路地裏に消えていく少女に追いつき、アーニャは声を張り上げた。
 少女はアーニャの制止がまるで聞こえていないかのように、静かに歩き続ける。張り詰めた声と、走るアーニャの足音だけが路地裏に響く。
「待って!」
 殆ど衝動的に、その後ろを追った。
 追いかけてどうするのか。そんなことは決まっている。今、私が彼女を追いかけているのは単なる衝動だとしても、もう一度会えたならどうするか、そんなことは、とっくの昔に決めていた。
「お願い、待って!」
 肩に手を伸ばして、かつて、拳銃を受け取ったあの瞬間のように一瞬の躊躇が指先を強張らせた。アーニャは、歯を食いしばり、その躊躇を振り切って少女の肩に手を掛けた。
 ――掴めた。
 もしかしたら触れることすらできないのではないかと思った。
 だが彼女には、確かに実在感があった。
 肩を掴まれてふらつく彼女を追い越すようにして、行く手を阻む。
「はっ、はっ……」
「……」
 荒ぐ息を抑えながら、少女の顔を正面から見つめる。
 あの時と変わらぬ、冷め切ってまるで興味のなさそうな少女の表情。アーニャは、それを当然のことと受け止めた。少女は、そういう存在なのだと。
「助けてくれたこと、ずっとお礼を言いたかったの。覚えている? 私のこと」
「……」
 少女は黙ったまま答えない。
 それでも、その沈黙は肯定であると思われた。アーニャは腰のホルスターからあの時受け取った拳銃を引き抜いた。ザスタヴァP25――あの時は解らなかった名前も、今は知っている。
 アーニャは掌を開き、その銃を見せ付ける。
「ありがとう」
 はにかむアーニャ。
 少女はじっとアーニャを見つめていたが、やがて、事もなげに言い放った。
「助けたわけではないよ」
「……えっ」
 その様子からは、決して謙遜や偽りは感じられない。かといって正直さともどこか違う。ただただ淡々と事実を告げただけ。助けたわけではない。彼女がそう言う以上、おそらくそうなのであろう。
 であるならば。
「だったらなぜ」
「理由なんてない」
「……」
 言葉を失ってたじろぐ。
 選びなさい、理由なんてないのだから――あの時、あの部屋でそう告げた彼女の声が、頭の片隅で朧気に再生される。その言葉と今の言葉が重なって、アーニャは首を傾げた。その疑問の正体を説明できず、彼女は押し黙った。俯き、掌の拳銃をひとしきり見つめて目を閉じる。
 ゆらと顔を上げたとき既に、彼女の姿はそこになかった。


 ビルからビルへと走る兵士の姿が見える。
「……」
 アーニャは、呼吸を落ち着けつつ標的を追う。
 静かに引き金をひいた。
 体に伝わる鈍い振動。直後、標的がひっくり返った。遊底を引いて空薬莢を弾き出して射撃姿勢をとり、標的を捉え直す。あるいは少女が再び姿を現すのではないかとの想いが脳裏によぎるが、待てどもその様子は無く、やがてアーニャは、這いずる兵士が遮蔽物に隠れてしまう前にもう一度銃弾を叩き込んだ。
 兵士が動かなくなったのを確かめてから、ゆっくり窓を離れる。
「はー……」
 肩の緊張を緩め、モシン・ナガンを抱く。
(理由、か)
 目を伏せて、どこを見つめるでもなくぼんやりと頭を巡らした。
(理由もなしに私を助けたりしたの?)
 考えておいてから、首を振ってその思考を打ち消した。
 それは違う。彼女は、そもそも助けたのではないと言った。理由もなく、助けるつもりでもなく、ただ選ぶよう告げて銃を渡したのだ――掌をホルスターに重ね合わせ、ホルスターの上から拳銃をゆっくりと撫で回した。
 でも。だけれど。
 窓からは顔を出さず、壁越しに今撃った兵士の方角へ目を向けた。
 そうだ。
 私は、何故彼を撃った。
 彼を射殺することに理由があっただろうか。トドメを刺す理由は。撃った理由は。彼を狙った理由は――確かに彼は敵だった。けれども、それが理由ではないように思えた。しょせん、そんなものは単なる環境や受動的なものなのであって、そこに私の意志は介在していないのだから。
(だいたい、私自身が……)
 かつて私を殺そうとした人々と肩を並べて戦っている。私たちを助けようとしてくれたであろう人々を敵としている。
 出自も、主義主張もへったくれもない。
 ただこうしていると落ち着く、安心するからそうしているだけだ。
「……ぁ」
 そうか、もしかして――ぱちりと目を開くと同時に、遠く爆発音が届いた。
 その音に顔をあげるアーニャ。
 視界の隅に映る、黒い少女。いつの間にか隣に佇んでいた少女は、窓から遠く爆音のした方角を眺めていた。
「誰か死んだ?」
「……」
「遠くから眺めるだけでいいの?」
「……」
 アーニャの問いかけに、彼女はついと振り向いたが、それきり何か答えることもなく、また窓の外を眺めはじめた。
「ずるいな。そういうの」
 姿を見せておいて我関せずみたいに――呟きは静寂の中に紛れて消えた。
 しんと静まり返る部屋。
 お互い何も喋らず、かといって少女が姿を消すこともなく、時間だけが過ぎていく。二、三分ほどして、アーニャは思いついたように顔をあげた。
「コーヒー、付き合ってくれる?」
 少女が顔を向ける。
 答えは無かったが、アーニャが立ち上がって歩き出すと、少女が続いて歩き始めた。
 廊下を歩く二人。
 裏口から外へ出て非常階段を下ると共に、薄っぺらい金属の音がかしゃん、かしゃんと路地裏に木霊する。だがその足音は、一人分だけだった。アーニャが時折振り返ると、自分のペースを崩さず、まるで音を立てないで、静かに、ゆっくりと歩いている。その姿は、まるで影法師が遅れて続くかのようだった。
 銃声が環境音となった街を歩く。
 道行く人は誰も彼女の存在に気付かない。
 やがて人通りも途切れた公園の一角で、アーニャは腰を下した。
 公園といっても、そこは荒れ放題に任され、まるで公園らしくはなかった。芝生は禿げ返り、数少ない遊具は既に破壊されて無残な姿を晒して、ベンチや水呑場だけが、辛うじてそこが公園であったことを主張している。
 敵の陣地からも近く、背後には廃車となったトラックが放置され、並んで車やらドラム缶、その他大量のスクラップが乱雑に積まれていた。
「どう? 私のお気に入り」
「……」
「ご覧の通り、粗大ゴミ置き場でね。いつも静かなの」
 アーニャは小さなリュックを開き、水筒とカップを取り出した。水筒からコーヒーを注いだ。ゆっくりと座った彼女にコーヒーを差し出すが、彼女は黙ったまま受け取った。
「……」
「暖かいうちにどうぞ」
 少し残念そうな顔で、アーニャは、自分のカップに口をつけた。
「ねえ。名前は?」
 アーニャの問いかけに反応しない少女。
 彼女は荒れ果てた芝生の上、壊れたコンテナにもたれかかったままだった。答える気配もなさそうで、アーニャは諦めたように視線を外したが――
「ないわ」
 ――それだけに、答えがあったことに驚いた。
「じゃあ、何か呼び名は?」
「死神とか、悪魔と呼んだひとなら」
 口を曲げるアーニャ。
「へんなの……おかしいね」
 アーニャはそっとコーヒーをすすってから、少女へ顔を向けた。
「あなた、なにしてるの」
「……なにも」
 ぽつりと呟いてから、少女は言葉を付け加える。
「なにもしないわ」
「それじゃ、私のことはなぜ?」
「私は何もしなかった」
「……?」
 少女の答えに、怪訝そうに眉をよせるアーニャ。
 少女は、小さく頭を振った。
「私は何もしなかった。彼らとあなたの力関係が、少し崩れただけ……」
 言い終えて、ゆっくりアーニャへ振り返った。
「選んだのはあなた」
 冷たい眼差しに変化はなく、その瞳に見つめられて、アーニャはぶるりと肩を震わした。
 彼女は、その震えを押さえ込むように小銃を抱え込む。
 さして興味もなさそうな表情で、少女はアーニャをじいっと見つめている。アーニャはぎゅっと瞳を閉じて、辛うじて問いかけた。
「選んだって……何を」
「殺すこと」
「そんなの」
「殺されることも選べたわ」
「……冗談」
 辛うじて呟くも、それが冗談ではないことは感じている。
 今まで彼女の言葉から冗談を感じたことはない。今も冗談だとは感ぜられない。彼女は包み隠さず真実を告げている。それが選べたのだと告げている。それは解っている。
 解っているのだが。
 であるなら。であるなら、なぜ――
「――どうして、私にくれたの」
 銃を。
「理由なんか」
「無い?」
「えぇ」
「……調子、狂うなぁ」
 その言葉に少女は答えなかった。
 アーニャは困ったように膝を抱え、頬をついた。見つめる少女と視線が合うが案の定表情に変化はなく、それが却って少女の言葉に真実味を持たせてしまっていて、どこか哀しくなる。
「あの理不尽な暴力から私を救ってくれたのは……あなたと、あなたのくれた銃だった」
「それは――」
「助けた訳じゃないのは解ってる」
 少女の言葉に割り込んで、アーニャは続けた。
 解ってる、解っていると数度呟いて、苦々しげに表情を曇らせ、視線を逸らして。それでもなお耐え切れずに瞳を閉じる。
 裸電球に瞬く蛾の影。周囲からは嗚咽が響く。銃はひたすらに静かで、暴力を伴わずして無慈悲に生を断った。崩れ落ちた友人の作った真赤な水溜りにまみれ、私は恐れていた。
 死を。おそらくは、無機質な、無意味な死であることこそを。
 あのとき私は――
「絶望に組み敷かれていた」
 一度死んだのだ。
「そこにあなたが現れたのよ……」
「……」
 それでも、理由など無いのだ。
「私に銃をくれたこと……私が銃を手に入れたことは、ただ、何でもない”ただそれだけのこと”だった?」
「えぇ」
「そっか」
 ただその手に銃が握られただけだった。それだけのこと。理由などない。理由など、何も。
「私は、もうあの部屋で死んでたのかな」
 人を撃って感じる安堵と落ち着きの正体が、ようやく解ったような気がした。
 あの安心感は、死という「向こう側」に相手を追いやることで感じていたものではなかったのかもしれない。私は死者だった。私ははじめから「こちら側」にいたのだ。誰か他人を抱いて感じる安堵のそれだったのだ。
 私は全ての意味と価値を失って、ひとり生者を眺めていた。
 あの部屋で見た鉄格子の意味を知って、アーニャは問いかける。
「あの時のみんなは生きてる?」
「……えぇ」
「やっぱり……でも良かった。みんなあのまま殺されたんじゃないかって、今までそう思ってた」
 ケタケタ笑って、アーニャは顔を上げた。
 腰のホルスターから拳銃を、P25を抜いて、ゆっくりと少女へ突きつける。
「アナタはどっち?」
「……」
 死者か、生者か。
 その問いが無意味であろうことは薄々感じていたが、それでも問わずにおれない。答えがなくともそれで構わなかった。だから暫しの静寂が場を支配したとき、アーニャは自らも気付かぬうちに自嘲を顔に浮かべていたし、少女の口元が微かに動いたことも見逃した。
「死者よ」
「……そか。それじゃ……あはは。お揃いだ」
 アーニャは、彼女の胸にぐいと銃口を押し付けて、顔を伏せた。
「だったら本当に死ねばいいのに」
 そのまま、銃口を顎へせり上げて、崩れるようにして胸に顔を埋める。
 胸に顔を押し付ける。
 少女の下あごにぴたりと触れた銃口。
 少女は、冷たくアーニャを見つめるが、胸に埋められたその表情は見えず、ほのかに暖かい吐息だけが衣服越しに伝わってくる。
「……」
「……」
 少女の胸は冷たかった。
 そこに温もりはなく、心臓の鼓動すらない。
 けれども、それが心地よかった。
 遠く、遠く響く銃声。
 生と死が交差する街、夕暮れに佇む瓦礫置き場と化した公園の片隅、重なった二人の影法師は細く長く伸びていく。
 ゆっくりと、諦め混じりに身体を起こすアーニャの顔が、夕日に照らされて橙色に浮かび上がる。どこか標的を仕留めたあとにも似た、落ち着いた、安心した笑顔だった。
 お互いに言葉は交わさなかったが、自然と、少女はカップを差し出した。
 差し出されたカップの中には、注がれたままのコーヒーが冷め切って揺れている。
「のまなかったの?」
「のめないから」
「コーヒーが?」
「……」
 全部、か。
 アーニャは小さくため息を吐く。
 立ち上がった少女は、膝とお尻の砂をぱんぱんと払う。
「それじゃ」
 一言、ぼそりと告げて少女は歩き始める。
 足音はないままに。
 ただひとり。
 アーニャはやるせない表情で、首をもたげた。
 行ってしまう。
 おそらくは、二度と会えない。
 直感がそう告げていた。
「死神さん」
 思わず、声をあげる。
 少女はぴたと足を止めた。
「あなたはひどいよ」
 少女は振り向かず、アーニャも首をもたげたまま。お互いに顔を合わせることはなかったが、それでも、アーニャはとつとつと言葉を紡いでいく。
「私に銃を与えるだけ与えて。おかげで、もう死んでいるのに、身体が朽ちるまでずっとこの世を彷徨うはめになっているんだから。たとえ私が、自分で選んだ道だとしても」
 だけど。
 だけどね。
 正面を向いて、少女の背中を見つめる。
「私には、アナタが美しく見えた」
 少女は半身だけ翻し、アーニャを見やった。
「みんなはアナタのことを死神と呼ぶかもしれないけれど、あの時の私にとっては、アナタは天使だった」
 投げやりな、それでいて、どこか憑き物が落ちたような表情。
「だから、ありがと」
「そう……」
 少女は、逡巡したかのように地面を見つめておいて、瞳をアーニャへと向ける。
「……またね」
 呟き。
 少女の口元に微かな笑みが浮かんだ。
 短い一言を終えると共に、少女は再び背を向けて歩き始めた。
 ゆっくり、ゆっくりと黄昏の街の中へ消える。
 呆気にとられてきょとんとするアーニャだったが、何故だか、彼女が微笑んだことが、またねと呟いたことが、それが妙に可笑しくって、口元に手をあててくすくすと笑った。
 黄昏を越えて夜が広がり始めた空。
 いつかと同じように半月が輝いている。


 少女は二度とアーニャの前に姿を現さなかった。
 アーニャは、それから一年ほどして死んだ。

コメント (1件)

やっぱりこの形式で小説投稿するのは無理があるなw

2012/06/03 17:27